しまなみ海道

Max: This place does not suit my life. Fanny : No Max, it’s your life that does not suit this place.

あれからもう二十余年、昨今ようやく「四国を訪ねてみようか?」と思いつくようになってはいたが、そのたび、映画「プロヴァンスの贈り物 ~ A Good Year」の中の、そんなdialogが脳裏に響き、足を遠ざけていた。

普段のモットーどおり、移動する速度が、旅のあり方や、そこでの人々との関わり具合を決めてゆくのだとしたら、「そこに住む」ということと、「そこを旅する」ということ、両者の間に、そんな大そうな差はないんだろうなあ、と、いまさらながら反省している。

「俺は四国に嫌われてるんだ」という自己暗示から、まるっきり解き放たれたわけじゃないし、ここに住むなんて、今でもまっぴらゴメンだけど、この旅で、すこしはお互いの確執が解けたんじゃなかろうかと、勝手に安堵している。

夕暮れの来島海峡大橋を渡りながら、「瀬戸内海は島々のゆりかご・・云々」という、あの頃書いた詩を思い出した。

旅から帰って書棚を探したら、当時の愛媛県現代詩大会の作品集とやらが見つかった。

読み返して「若かったなあ・・・」と赤面する。

それでもまあ、瀬戸内海の美しさを形容する、これ以上の言葉は今の僕には見つからないので、その一部を引用しておくことにする。

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人を生きる切なさは、海を見つめるもどかしさによく似ている。

波にこがれ、潮騒を恐れ、それでいて、みずからがひと寄せの波に解け落ちることのない、そんな切なさだ。

瀬戸の内海は本当に穏やかで、あんな小舟が沖を渡るだけでも、波の高さが、これほどに変わるのだ。

水面にたちこめた淡いもやの中に、雲海に浮き立つようにして、島々が頭を突き出している。

夕焼けが、かすみ立つ入江を浮雲と同じ紅で染め上げてゆき、僕は天上を、さらにその天上から見下ろしてでもいるかのような錯覚に抱かれる。

海は母ではなく、母の子宮なのだ。

(中略)

故郷が育まれてゆくほどに、郷愁は行方を失ってゆく。

見上げれば降り注ぎ、見下ろせば、舞い落ちる。 焦がれるほどに、行方をもたない。

永遠は、それほどに遥かではないかもしれない。

それは、この瀬戸内の水面にも揺れ、きらめき、そして暮れてゆく。

日が沈む。

蒼が泳ぎ、朱が泳ぎ、島々のゆりかごは優しく暮れてゆき、僕はまといつく砂を払い、また喧騒の中へでかけてゆく。

(以下略)

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