雲の地平を見下ろしながら、この荒涼とした砂丘をわたり行く民のことをふと思った。あの雲の、あの頂あたりで夭折した友が、風の馬を駆り、日よけにターバンでも巻いて、僕に手を振っているに違いない。 いや本当に彼は、あそこにいるに違いない。この雲上に聳える宮殿だって僕の目に見えないだけだ。あらゆる感覚は僕らの存在様式に適切に具現されているだけで、闇で何もみることができないよう、光の下にも僕らの目に見えないものがあふれている。もし僕等が三つ目の種族だったら、世界はもうひとつ余分な次元軸を持つだろう。 この飛行機を飛ばすニュートン力学だって、種子島からロケットを飛ばす相対性理論だって、どちらが正しい訳じゃない。その時折の地平に応じて、僕らが世界を捉えるのに最適化された方法論があるだけだ。真理は常に極限値の向こう側に定立する。 雲間から海が見えても、雲と地上のレイヤーは区別しがたく、淡い千切れ雲が海上の小島に思えたりする。神の手になるものは、みんな気まぐれな形をして、気まぐれな場所にいる。フラクタルとかカオスなどという言葉をふと思い出したが、そんな安直な概念でとらえきれない奔放さがそこにはある。 波間に貨物船を見つけたり、雲間を他の飛行機が飛び行くのを見つけたときだけ、それが海なのか、それが空なのかがはっきりする。そして、人のつくりだしたものはみな、直線であったり、単純なカーブであったり、一目でそれとわかってゲンナリとさせられる。いっそのことシゾフレニーでにもなって雲から突き出てくる手が見えたり、窓の外を這いつくばる小人達でも見えたらどんなにすてきなことだろう。 全ての生と死が、この世界にある。内包されているのではなく、境界なく、ただ曖昧と浮遊している。天国なんてものも、地獄なんてものも、現世なんてものも、そんなものはどこにもない。そこにあるのは、人間なんて概念を含めて、世界から沸き立っては消えるさざ波に過ぎない。 僕らは恐れから、死を蔑み、生を尊ぶ。でも、屋久杉の森で新芽の中に枯葉が朽ちてゆくように、あるいは、倒木にも苔がむすように、生も死もそのままにここにある。 和蠟燭を職人がこね上げて象る、燭台に火がともされ、吐息として燃え尽きる。燃えさしが残り、やがて朽ちてゆく。何を生と捉え、何を死と捉えるにせよ、腐り果てた屍を生がどう忌諱しようとも、生がここを漂うように、死もこの世界を漂う。 その全てを包容し、自然(あえて「じねん」と読もう)は慈しみに満たされている。
